興岳寺の歴史

興岳寺縁起略式

八王子市千人町にある萬松山興岳寺は文禄元年(1592年)、すなわち、今から約425年ほど前に石坂勘兵衛が菩提寺として建立した寺院です。

甲斐(今の山梨県)の大名だった武田信玄が病死したあと、その子勝頼も豊臣氏のために亡ぼされたので、彼らの遺臣は徳川家康の指揮下に入りました。その中で石坂勘兵衛が旗本となってここに所領をいただき、組屋敷の東部に建てたものが興岳寺の基であります。

石坂勘兵衛は当時、名僧として人々から尊敬されていた随翁舜悦禅師を開山として迎え、自分の子石坂弥次右衛門を開基としました。

それ以来、石坂氏は代々当時の檀家として、現在15代に及びます。

興岳寺縁起略式

本堂の全焼・災禍からの再建

舜悦禅師は八王子・楢原の出身で、山田の広園寺で臨済禅を学び、越前永平寺でも曹洞禅の修行をされました。

その後、恩方の心源院や遠江石雲院の住職を務めましたが、学徳の高いことで小田原の北條氏照の帰依を受け、正親町天皇から「仏国普照禅師」の照号と紫衣とを賜りました。また、多くの寺院の開創にかかわりました。

武田信玄の娘の阿松は当寺を頼って舜悦禅師に養われましたが、剃髪して信松禅尼と称し一生を終えました。台町の信松院はその遺言で建てられました。

興岳寺は開山当時曹洞宗でしたが、江戸時代の初期には浄土宗になったこともありました。

現在は元の曹洞宗に属しております。

当寺は文化6年(1809年)火災に見舞われ、堂宇は全焼しました。

さらに昭和20年(1945年)8月2日未明、米軍機による八王子空襲の際にも全焼しました。そんな災禍にも遭いましたが、幸い本尊は無事で現在も安置されています。

太平洋戦争の後、本堂と庫裡の再建に当たっては、多くの檀家や支援者のおかげで、以前にも増して立派なものが成りました。

仏教2500年の伝統に立脚して、新世紀に在るべき人間の道を探求し、皆様との信仰をともにすることを喜びといたします。

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興岳寺を開いた僧侶「仏国普照禅師」

戦国の世の八王子には、卜山和尚(ぼくざんおしょう)という偉いお坊さんがいました。

奈良の農家に生まれ、実に120歳の長寿を生きた卜山和尚は、卓越した道行に褒章をもって応え、紫衣ならびに「仏国普照禅師」の称号を賜わりました。

仏国普照禅師は、仏道に精進し、衆生教化に携わり、多数の弟子を育て、七つの寺院の開創にかかわりました。その中の一つに興岳寺があります。

興岳寺を開いた僧侶「仏国普照禅師」

仏国普照禅師の略歴

13歳 出家し、公園寺(臨済宗)に入門。
17歳~34歳 所縁の寺院にて修行。塩山・向嶽寺~京都・五山~安来・雲樹寺~博多の禅林~京都~越前・永平寺~三河~遠江・石雲院。
35歳~50歳 八王子に帰り心源院に住む。45歳、玉田存麟師より印可授かる。50歳まで牛頭山(深沢山)に雲臥、聖胎長養。
51歳 心源院監院(事務総長)。この頃北条氏照公、卜山師に入門。後に印可授かる。
60歳 氏照公の開基になる宗関寺、晋山式(住職になる式)執行。卜山師、開法第一世。
62歳 氏照の父・後北条氏三代目当主・北条氏康公に招かれて、小田原城を訪れる。ここで氏康公に大戒を授ける。また、この年と翌年、二度にわたって正親町天皇より褒章を拝受する。勅賜の禅師号は62歳のとき、拝領した。
67歳 宗関寺一世の退き、心源寺に昇住、第六世。75歳、中興の祖と称えられる。
83歳 遠江・石雲院の輪番住持として昇住。法話には近隣の道俗大勢が聴聞に雲集。
84歳

天正の乱。6月23日八王子城落城。7月小田原城落ち、13日氏照公刀卒し、果てる。これを機に、卜山氏は「随縁化導」の生活に入る。以後35年間、「仮の宿り」を転々とする。

85歳

大御所家康公が心源院・宗関寺に若干の寄進をする。

この間、五つの寺院を開山し、前の二寺(雲龍寺、宝珠寺)と合わせて七つの寺を創めて、八王子の衆庶の信仰生活充実に多大の寄与を果たした。

いま残るのは、宗関寺、雲龍寺、興岳寺、信松院の四つである。

91歳 この頃平日は霊蹟を探し、緒方の巡り歩き、修行や教化に務めた。
94歳~96歳

上野、下野・下総・鎌倉・修善時に遊行の生活。

その後、広園寺・信松院に化寓する。

114歳 秀忠公より、江戸城に招かれる。しかし病のため赴かず。
118歳 宗関寺に戻り、師のために立てられた瑞聖室に落ち着く。
120歳 示寂。直前、筆を求めて辞世の句を書した。
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